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Vol. 1

ダイアログ 農薬の社会的意義と、未来を考える

当社は長年、安全で有用な農薬の研究開発と普及に努めてきました。それは「食の安定供給を支える農業に貢献し、革新的な技術と独自の事業領域を確立した最先端の化学メーカー」を目指す道のりと言えます。
一方で化学農薬に対するネガティブなイメージが消費者や株主の間に根強くあるのも事実です。
「農薬の価値をどう伝えるべきか」「未来の農薬が目指すべき方向性とは」。
東京大学大学院の浅見忠男教授をお迎えし、当社の開発や販売の最前線で課題と向き合う社員たちとのダイアログを行いました。

ダイアログ参加者

東京大学大学院農学生命科学研究科 教授

浅見忠男 教授

東京大学大学院農学系研究科農芸化学専攻博士課程修了。日本特殊農薬製造株式会社(現:バイエルクロップサイエンス株式会社)を経て1991年に理化学研究所へ入所。
1995年からはオーストラリア連邦科学研究機構(CSIRO)植物産業部門訪問研究員に従事される。1997年より理化学研究所先任研究員、副主任研究員を経て2006年より現職。
植物に対する新しい生理活性化合物の発見・創製を行い 、新しいコンセプトを持つ植物生長調節剤への応用を目指した取り組みを実践されている。

Theme.1

農薬が食料生産に果たしてきた役割とくらしや社会にもたらした変化とは?

浅見教授

本日はお招きいただきありがとうございます。農薬に関するさまざまなテーマについて、研究開発や営業の最前線で活躍されている皆さんとお話しするのを楽しみにして来ました。
私が若い頃、先輩から聞いた話ですが、終戦間もない当時は工場の前に問屋や農家の方々が長い行列をつくって農薬を買い求めたそうです。食料不足の時代において農薬は生産性を高める画期的な製品で、その強い欲求に応えて普及したのです。それから70年以上にわたって農薬が食料の安定生産に果たしてきた役割はとても重要であり、今も変わりません。現代の日本人の豊かさを支える食料供給には、農薬が大きく貢献しているのです。
一方で、健康や環境に対するリスクが農薬のイメージを著しく低下させています。それは、リスクとベネフィットのバランスが正しく認識されていないからです。たとえば、大正時代に水道の塩素殺菌が始まったことで感染症が減り幼児の死亡率が劇的に低下しました。その後、塩素により生成されるトリハロメタンの発がん性リスクが指摘されましたが、大きな問題にはなっていません。発がん性のリスクよりも塩素消毒のメリットの方が大きいからです。また、最近の消費者は無農薬や有機農業の作物を求めますが、それによって農家の労働が増大することは気にしていないように思えます。私が子どもの頃、農繁期は学校が休みになって、農家の子は家の農作業を手伝っていました。日本ではもう過去の風習ですが、世界に目を向ければそうした状況の国々はまだたくさんあります。言うまでもなく児童労働は貧困の連鎖や教育の普及を妨げるブラックな行為で、その撲滅はSDGsの目標にも掲げられています。農業のブラック化防止にも農薬による作業の省力化が大きく貢献しています。

企画普及部普及課(以下、企画) Y

農薬は食料の安定供給や農家の省力化を実現するとともに、スーパーマーケットや食料品店に並ぶ作物の美味しさや見た目の美しさといった消費者のニーズにも応えています。病害虫による被害を防いで、優れた品質の作物を生産できることは、農家と消費者の双方に大きなメリットを提供していると思います。

マーケティング部担い手推進企画課(以下、マーケ) S

私は現地で生産者の方と関わる機会が多いのですが、日本の農家の経済基盤にとって農薬の存在が欠かせないことは自明の理です。近年は農業生産法人などが大規模展開する際、よく人手不足という課題に直面します。農薬による作業の効率化がなければ事業が成り立ちません。農薬は農業を営む人の作業を支え、くらしを支えるものです。

Theme.2

科学的なファクトチェックに基づく農薬の安全性をどう伝えるべきか?

マーケ S

農薬は医薬品などと異なり、使用者=消費者ではないため製品の有効性や安全性が伝わりにくい側面があります。農薬工業会では消費者向けに「農薬ゼミ」を開催して、農薬に関する理解を深めてもらうための取り組みを行っています。当社も使用者だけでなく、消費者にもしっかりと情報を発信して正しい知識に基づいたリスク判断を求める必要があります。

企画 Y

まず有機農法や無農薬で育てた作物と、農薬を利用した作物の生産コストがどれくらい違うのか。そして、生産者が使用している農薬のリスクを明確にわかりやすく消費者に伝えることが重要だと考えています。消費者がスーパーマーケットや食料品店で安くて美味しい野菜や果物、穀物を購入できるのは、農薬を使用することで病害虫から守られている要因も大きいと思います。

研開企画部企画課(以下、研開) I

報道で農薬の危険性を指摘する記事が多いのは、危険に対して警鐘を鳴らすことに大義名分があり、大衆の興味を惹きやすいからです。化学物質の健康被害に関する報道において科学的根拠に基づいていない報道や、重要な事実に触れていないケースが目につきます。理論よりも感情を刺激するような情報の出し方ですね。マスコミには信頼のおけるファクトチェックや、異なる立場の専門家の意見を取り上げるなど、正しく偏りのない情報を提示して一人ひとりがどうすべきかを選択できる報道をしてほしいと思います。

総務人事部広報・IR 課(以下、IR) D

IR担当として投資家と話をすると、農薬業界はESGの観点ではマイナスからのスタートだと言われることが多々あります。ただ、同様に化学製品を扱うことでマイナスイメージがあるはずのプラスチック業界では、リサイクル技術の情報を積極的に発信して高評価を得ている企業もあります。私は農薬業界もステークホルダーとのコミュニケーションを工夫することでイメージを変え評価を改善できるのではないかと考えています。今回のダイアログを開示することもその一つですし、株主や投資家の方々に農薬の価値を丁寧に伝えていくことが大切だと思います。

研開企画部研究推進課(以下、研開) N

食品添加物や遺伝子組み換え作物もくらしに恩恵をもたらすことは間違いないのですが、スーパーマーケットや食料品店の売り場に並ぶのは、「着色料・保存料不使用」や「遺伝子組み換え作物不使用」をアピールした食品です。科学的に不十分で根拠に乏しい安全性への懸念によって消費者は不安に駆られ、イメージ低下につながっています。科学的な「理」だけでなく、メディアの影響を受ける「情」の部分を含めたコミュニケーションの必要性を痛感しています。

Theme.3

温暖化により増大する環境ストレスに対して切り札に成り得る新しい技術とは何か?

研開 N

地球温暖化の影響で作物が受ける高温障害や乾燥などの環境ストレスの緩和は、当社にとっても大きなテーマであり、生産者からの期待も高まっています。日本においては、長らく高温多雨が続いたことから、温州ミカンの実から皮がはがれてしまう「浮皮」が大きな問題になりました。この「浮皮」を軽減するために、ジベレリンとプロヒドロジャスモン液剤を混合して散布する新しい技術が実用化されています。これは作物の温暖化対策に植物成長調整剤※1が貢献した代表的な事例です。これからは、農薬の開発においても着果や着花率の低下、果実の登熟不良から「浮皮」や日焼けといった商品性に影響する環境ストレスに対応できるような植物成長調整効果のニーズも高まってくると考えています。

浅見教授

雑草や病害虫を防ぐだけでなく、植物の持っている力を引き出して元気にするような技術として、バイオスティミュラント※2が世界的に注目されていますね。私の研究室にもよく問い合わせがあります。さまざまな企業が事業化に向けて動いているようですが、クミアイ化学工業はどのように取り組まれていますか。

研開 I

当社も2018年に発足した日本バイオスティミュラント協議会の賛助会員になっていて、私たちの部署で情報を収集しています。バイオスティミュラントは EU では肥料法に組み入れる法改正が施行予定ですが、日本ではまだ農薬、肥料、土壌改良剤のいずれのカテゴリーにも位置付けられていません。温暖化による環境ストレスの切り札としてどれほど有効な技術なのか未知数のところもありますが、これから安全性や効果の確保のための品質・規格の標準化等が進むと思われ、農林水産省が推進するみどりの食料システム戦略※3でも言及されたため期待が高まっているのは確かだと思います。

Theme.4

みどりの食料システム戦略の目標に掲げられた「化学農薬の使用量をリスク換算※4で50%低減」を実現する具体策は?

研開 N

この目標を実現するためには、まず高活性で安全性が高く、環境への影響が少ない農薬を開発することです。もう一つは、先ほども話に出たバイオスティミュラントや微生物農薬※5など、化学農薬以外の選択肢を増やしていくことでしょう。約半世紀にわたって多くの農薬が開発されているため新たな有効成分を探し出すのは容易ではありません。AI のような先端技術を用いて探索スピードを速め、新農薬の開発を促進することが重要です。

浅見教授

使用量を50%低減するなら、薬剤の効果を2倍にすればいい。難しい目標ではないと思ったのですが、簡単には達成できませんか。

研開 N

リスク換算については農業資材審議会分科会の検討ではADI※6を指標としてリスク換算する方法が議論されていますので、使用量を半減するだけでなく、より安全性が高い農薬へシフトする必要があります。

マーケ S

薬剤の開発と合わせて、ドローンを使って圃場の必要な場所に必要量の農薬をピンポイントで散布するスマート農業※7技術も一部の病害虫・雑草の防除においては農薬の使用量を減らす手立てになり得ると思います。

Theme.5

これからの農薬メーカーに求められるものは何か?

生産部SQE推進課(以下、生産) Y

食料の安定生産において、農薬の果たす役割の重要性は今後も変わりませんが、環境負荷の削減や環境ストレスへの対応など、新しい付加価値が求められています。これから私たち農薬メーカーが注力すべきは、みどりの食料システム戦略に対応した農薬への移行と、農作業の効率化や省力化に寄与するイノベーション型の農薬開発だと考えています。微生物農薬やバイオスティミュラントなどを中心に、リスクが少ない環境保全型の農薬のラインナップを拡充して、生産者と消費者双方のニーズに応えていくことが重要です。

IR D

新しい農薬の開発を推進するとともに、その価値を消費者に発信していく必要があります。本日のダイアログは、私たちが事業の課題と向き合っていくうえで、とても貴重な経験になりました。最後に浅見先生からひと言お願いします。

浅見教授

みどりの食料システム戦略による農薬の使用量低減は、カーボンニュートラルに同調したものでしょう。ただ、低減目標であってゼロにするということではありません。もし農薬を使わなければ、世界の食料生産は崩壊します。農薬は食料の安定供給だけでなく、貧困や児童労働など社会課題の解消にも貢献している。だから、皆さんには強い使命感を持っていただきたい。農業は成長産業なのに、農薬メーカーはESG的に高い評価を受けていません。農薬の負の面だけがフォーカスされないように、ステークホルダーに向けてエビデンスベースの情報を発信してください。皆さんの尽力に期待しています。

対談を終えて

IR D

ESGやSDGsの浸透により農薬に求められる役割も少しずつ変化しています。ただ、環境保全のニーズが高まる一方で、農業が抱える問題は見過ごされています。農薬が農業の健全化に貢献していることを訴求したいですね。

マーケ S

農業を持続可能な産業として支えていくのも、私たちの役割であることを強く感じました。高齢化や人手不足に対応して、AIやドローンを活用したスマート農業に組み込む形で農薬を提案したいと考えています。

企画 Y

農薬を使う生産者だけでなく、マスコミや消費者に対しても科学的に正しい情報を伝える必要があることを再認識しました。省力化や環境への配慮について、当社のさまざまな取り組みを発信したいと思います。

生産 Y

みどりの食料システム戦略が注目されることは、ステークホルダーに農薬について理解を深めてもらう良い機会になると思いました。これからも省力化や環境に配慮した農薬の品質向上に努めます。

研開 N

農薬も転換期を迎えているのかもしれません。でもそれはチャンスです。AIやIoTなどの先端技術を駆使して SDGsなどの新しい世界の価値観にフィットする製品を、開発スピードを高めて取り組む必要があります。

研開 I

私たちに求められているのは、高活性で環境に優しい農薬の開発です。そのためにも微生物農薬やバイオスティミュラントなど新しい農業資材に果敢にチャレンジしていく姿勢が必要だと思いました。

用語解説

※1植物成長調整剤
農作物の成長や発育をコントロールして生産性を高め、品質の向上や収穫量の増加を目的として使用される農薬。広義での植物の生長を制御する薬剤は、このほかにPGR(Plant Growth Regulator)、植物生育調整剤や植物生長調節剤とも呼ばれる。主な成分は植物ホルモンや有機化合物(生理活性物質)が主体であり、無機物、天然抽出物あるいは発酵生成物などの複合物質を含む。病害虫や雑草を防ぐ農薬と異なり、主に生育の促進・抑制、開花期・熟期の調整などに利用。クミアイ化学工業も水稲の倒伏軽減や着花・発芽促進、薬剤の効果を高めるなど、多様な製品を開発している。
※2バイオスティミュラント
高温や低温、風雨や雹など物理的な被害により植物が受ける非生物的ストレスを制御することにより、気候や土壌のコンディションに起因するダメージを軽減し、安定した収穫と作物の品質向上をもたらすもの。農薬が生物的ストレス(害虫、病気、雑草、生長調節)をターゲットとするのに対し、バイオスティミュラントは非生物的ストレスをターゲットとしている。天然成分や動植物由来の抽出物、微生物起源の代謝産物等の他、微生物も含まれる。
※3みどりの食料システム戦略
2021年に農林水産省が策定した農林水産業の生産力向上と持続性の両立をイノベーションで実現するための中長期的な政策方針。エネルギーから環境、サプライチェーン全体にわたる幅広い領域の改革を推進するなかで、KPIに掲げられた項目で最も関わりが深いのが2050年までに化学農薬使用量(リスク換算)の 50%低減であり、農薬業界全体で取り組むべき課題となっている。
農林水産省ホームページより:
※4化学農薬使用量(リスク換算)の50%低減
スマート防除技術体系の活用や、リスクの高い農薬からリスクのより低い農薬への展開を段階的に進めつつ、化学農薬のみに依存しない総合的な病害虫管理体系の確立・普及等を図り、2050年までに化学農薬使用量(リスク換算)の50%低減を目指す政策。リスク換算の方法については、農業資材審議会農薬分科会で議論の上で決定するとされていて、今後、農林水産省において最終的なリスク換算方法が決定される予定。
※5微生物農薬
自然界に存在する微生物を徹底的に調査・研究し、利用可能な素材を見出し、高度な培養技術や製剤技術を駆使して農薬として磨き上げたもの。安全性に優れ、環境負荷が低いメリットがある。みどりの食料システム戦略においても化学農薬の代替として重視されている。クミアイ化学工業では、イネ種子消毒剤「エコホープ R」「エコホープ RDJ」をはじめ、園芸用殺菌剤「エコショット R」などさまざまな微生物農薬を「エコシリーズ」として開発・販売しており、環境に優しい農薬に対するニーズに対応している。
※6ADI
「Acceptable Daily Intake(許容一日摂取量)」の略語。個々の農薬有効成分について、ヒトが一生涯にわたって毎日摂り続けても、健康上なんら悪影響がないと考えられる一日あたりの摂取量の上限を意味し、ヒトの1日当たりの体重1kgに対する物質量(mg/kg体重 / 日)で表される。
※7スマート農業
ロボット技術や情報通信技術 (ICT) を活用して、省力化・精密化や高品質生産を実現する等を推進している新たな農業のこと。 日本の農業の現場では、依然として人手に頼る作業や熟練者でなければできない作業が多く、省力化、人手の確保、負担の軽減が重要な課題となっている。日本の農業技術に「先端技術」を駆使した「スマート農業」を活用することにより、農作業における省力・軽労化をさらに進めることが可能になるとともに、新規就農者の確保や栽培技術力の継承等が期待される。

スマート農業の効果の一例

  • ロボットトラクタやスマホで操作する水田の水管理システムなど、先端技術による作業の自動化による規模拡大
  • 熟練農家の匠の技の農業技術を、ICT技術により、若手農家へ技術継承
  • センシングデータ等の活用・解析により、農作物の生育や病害を正確に予測

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